民法曲がり角 ?
平成25年9月に最高裁で、非嫡出子の法定相続分が1/2なのは違憲、すべての子供は平等との判決が出た。 よくも悪くも民法、ひいては税法にとって、いままでの考え方を修正する転回点になるのではと思った。 明治以来の民法が古いというのではない。時代に合わなくなってきたのでもない。根本の論理思考が変わる。そのような気がする。
かつて、肉、野菜、魚が集まってできた小さなスーパーの、本部機能だけの法人の経理をみていた。小さな規模で、資本金は最低限、正社員は1名のみ、あとは女性パート数名の会社だった。年末調整事務で、従業員の方々から預った扶養控除申告書をチェックしていると、扶養の欄にお子様の名の記載があるのに、寡婦に丸がついていない社員を発見した。これがあるとないとでは、寡婦控除として35万の課税所得が違ってくるからだ。 経理の方に頼んで、その方を呼んでもらい、質問した。 「この名前の方はあなたのお子さんですか?」 「そうです。」 「特別の寡婦」に丸がありませんね。ご主人の扶養ですか?」 「いいえ。」 「世帯主のお母さんの扶養ですか?」 「いいえ、私の扶養です。市役所で、あなたは寡婦ではないのだから、くれぐれもそういう申請はしないように言われています。」
私は混乱しました。子供がいるのに寡婦でない?
するとくだんの女性はさいごに、こう言いました。 「私、結婚していないんです。」
なるほど、所得税法には、「婚姻ののち、死別または離婚・・・」と書いてある。 納得しました。 だが、まてよ。なぜ、所得税法は婚姻のあるなしで、分けているのだろう。弱者救済ということなら、おなじ母子家庭なのに・・・
民法は一夫一婦制のもと、公序良俗ということを考える。 この世界では、婚外子は公序良俗に反した行為。いわば法律の埒外のことだ。自ら望んで? 無法行為をした者に対し、そこまで手を差し伸べ救ってあげるべきなのか? その答えが法定相続分1/2だったのだと思われる。
では、無法者の世界の人たちはどうしたのか?
おそらく、男性側(ダンナ衆)が面倒をみたのではないか? 自分たちが法を犯している自覚があれば、自分たちで責任を取るしかない。 あたりまえのことなのである。 もちろんそうでない悲劇もあったのだろうが、総じて社会問題とされなかったのは、男の甲斐性という責任と自覚があったからだと思う。
いまの世の中、ぶら下がって生きている人が多すぎる。 自らのことは自らの責任で始末をつけるくらいの気概がほしい。
それが崩れているような世の中になっていく気がする。